ミュージックハウスのこと。

初めて買った外タレLP。

今は昔。
二人の兄のレコードを聴いて育った小学6年生の僕は、そろそろ自分所有のレコードが欲しいと思い(洋楽じゃなければ意味がないと思っていたので、沢田研二のLPやさだまさしの12インチやジェッターマルスのシングルじゃ駄目だったのだ)、駆け足で町のレコード屋へと向かった。
その当時、兄達のレコード棚の中で一番気に入っていたのは、バッド・カンパニーやイル・ヴォーロやスプリングスティーンやフォガットではなく、次兄がボロボロの中古で買ってきて、我が家では非常に低い扱いを受けていたビリー・ジョエルの『ストレンジャー』だった。学校から帰ると真っ先に大ヴォリュームでA面1曲目を流し、「はらかっかっかっかっかっか!」と踊りまくっていたのだ。
町のレコード屋は3軒ほどあったが、僕が良く通っていたのがミュージックハウス。良く通っていたくせに、買ったのは何年か前のさだまさしだけだ。沢田研二は2枚ともハリウッドだったし、ジェッターマウスは駅の東武ストアだ。じゃあ買わずに何をしていたのかというと、必ず店長の宮野さんに『ニューヨーク52番街』を"試聴"と称して両面聴かせてもらっていたのだ。軽く十数回は聴かせてもらっていたと思う。宮野さんは嫌な顔一つせず、「谷川くん、聴いてくぅ〜?」と当時のヒップな(そして僕にとっては退屈な)ロックをビリー・ジョエルに取り替えてくれた。パーマのかかった長髪を後ろで一つに束ね、バンダナを巻いてオーバーオールを履いた宮野さんは、当時の僕の最も憧れていたヒーローの一人で、どこか抜けた感じのその声のトーンが、あの狭い店をとても居心地のいい空間にしてくれていた。凡そ40分間、最後の「52nd Street」が終わるまでほとんど口も利かず、ほぼ終わると同時に「ありがとうございました」とだけ言って店を去ってしまう僕を、よくあんな素敵な笑顔で迎えてくれたと思う。その笑顔の裏にあるものを当時の僕が理解出来なかっただけなのかもしれないが。
貯めたお小遣いを握り締め、店に入って迷わず『ニューヨーク52番街』を抱えてレジの所の宮野さんに(「かけて下さい」ではなく)「これください!」と言えた時は本当に誇らしい気持ちで一杯だった。
数年経ち、高校3年生の時にミュージックハウスでアルバイトを始めた。それからの数年間、この店で学んだ音楽は数知れない。ドック・ワトソンやノーマン・ブレイク、バンジョー・キングスでさえもミュージック・ハウスで出会ったことになる。業務を拡大して貸しレコード屋の問屋も始めた宮野さんは、ミュージックハウスの隣の2Fを倉庫兼事務所にして、莫大なCDと僕を含めた若造達に囲まれながらいつも笑顔を絶やさなかった。
レンタルシールを貼るお陰で、入荷するCDは既にビニールが破かれていた状態だった。注文を受け、発注をかけ、数日後に大量のCDが入荷する度に、宮野さんは誰よりも早くダンボール箱を空け、その日のお気に入りの一枚を選び出して僕を呼んだ。
「次コレかけてよ谷川くぅん!」
大きなステレオセットで、大ヴォリュームで次々と出荷前のCDを掛け捲った。「孤独なランナー」をかけると、必ず僕等二人は仕事の手を止め、ドラム・フィルを競いあって真似して、そして笑った。コンピューターのイロハも、この時に覚えた。事ある毎に焼肉を食べに行き、あーでもないこーでもないと薀蓄を垂れあった。僕も、いっぱしの大人の気分だった。今現在の僕の志向性や、更には今の仕事(まったく別の業種だが)でさえも、この時代が無かったら変わっていたかもしれない。
しかし決して僕は、模範的な従業員だったわけではなく、その数年間毎日のように繰り返し遅刻し続け、終いには情けないトラブルを起こし、給料の前借分を残したまま、逃げるように辞めてしまった。大きな大きな恩を、仇で返してしまった。
更に数年が経ち、ちゃんと謝ることも出来ないまま疎遠な状態が続き、そしていつの間にか、宮野さんは店を閉じて田舎に帰ってしまった(らしい。これはQ太郎に教えてもらった。自分では確かめる術もなかった)。
・・・ビリー・ジョエルのボックス買いてえなぁ。なんたってワシの思い出ミュージックNo1だからよぉ・・・と茶化した日記を書くつもりだったのだが、書き始めるとそんなわけにもいかなくなった。
『ストレンジャー』、『ニューヨーク52番街』、更に言うなら『グラス・ハウス』、『ソングズ・イン・ジ・アティック』、『ナイロン・カーテン』、それからかろうじて『イノセント・マン』。
今でも、ビリー・ジョエルを聴くと宮野さんを思い出す・・・ということが今日分かった。更に言うなら、なんとなく涙ぐんでしまうことも、分かった。かろうじて、持ちこたえた。

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